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2002-06-17 個人の発意と業務命令 |
6月15日、16日と土佐電気鉄道と伊予鉄道への出張取材に出かけてきた。毎日取材している広島電鉄と異なっている部分などなかなか興味深いものがあった。このようにいろいろな鉄道を見てくると考えさせられるものが多くあった。この中から読者の皆さんも一緒に考えていただきたいものに関してここに書いてみたいと思っている。
2002年6月17日に伊予鉄道の路面電車の取材を行った時に電車に乗り込んで移動していた。電車が古町駅に到着した時であった。電車がホームに到着すると、乗務員の交代があった。実のところ乗務員の交代はどこかで行われていると思っていたが、この古町駅で行われていることを初めて知ったのである。この交代の様子を眺めてみると今まで運転を行っていた乗務員が乗客の前で一礼をした後、次に乗り込んできた乗務員が同じく乗客の前で一礼をして運転台についていった。以前より各地の掲示板で伊予鉄道の乗務員の乗客に対する接客のよさを示すものとして多くの書き込みがあるのを知っていたので目の前でこうして実際に目にすると新鮮であった。

古町駅に到着する電車から見た交代の乗務員の姿である。
ここで決して伊予鉄道やその乗務員に喧嘩を売るわけではないがゆっくりと次からの文章を読んでいただきい。広島電鉄においても電車から降りるときに乗務員の目の前で運賃を投下する時など「ありがとうございました。」の声を掛けられることはよくあることである。このような声を掛けられるとなんとも単純な私などすぐに嬉しくなってしまうものである。しかし疑念も感じられることもある。この掛け声や一礼は心からのものであるものかと。私は心からのものと信じているが、業務命令にたいする業務服務として行っているとしたら何とも味気ないものである。私は各鉄道会社が挨拶や掛け声などを業務命令としているのかは不明である。ただ仕事の現場では業務命令ではないが、長年の習慣として受け継がれているものもある。習慣として定着したものは、おそらく個人で始めたものがだんだんと職場で広がっていったものであろう。とくに昔からの習慣として現在まで引き継がれているよい習慣に関しては最初に始めた人たちの精神も一緒に引継ぎ心を込めて挨拶をしてもらいたいと思っている。
私のように個人経営の会社では、お客さんからいただいたお金が会社の収益となり、その中から私自身の給料を支払っていることを体の底から分かっている。会社の収益が上がらないと私自身の給料は無いのである。しかし、鉄道会社で従業員として働いている乗務員は労働力を会社に売って会社から給料をもらうものであり、会社の業績がいくら悪くても所定の給料を支払わなくてはならない法律上の義務がある。このため給料の元となる運賃の売り上げとは切り離された状況にあり、ある意味保護された環境にある。このようなことから一部の乗務員の中には乗客からお金をいただくことのありがたさを忘れている者も現れてくる可能性もあり、会社としては業務命令として挨拶類を定めていても不思議ではない。しかし私は乗務員がこのような会社からの業務命令だから挨拶を行っているとは決して思っていない。多くの乗務員たちはたとえこのような業務命令が無くとも自発的に感謝の意を示すなんらかの行動を各人が行っていると思っている。
乗客と直接接する乗務員は乗客の感情を素肌で感じる立場にあり、乗客が不快に思っていることがあれば言葉に発しなくてもすぐに感じ取れるものである。このような乗客と矢面に立たされている乗務員であるため決して乗客を邪険に扱おうととは思わないはずである。また乗客からも「ありがとう」の言葉をともに降車してゆく姿を見たときにはきっと乗務員も気持ちのよいはずである。これらは業務とは離れたところに存在する人間本来のものだと私は思っている。
次に挨拶などに関していろいろな掲示板などで私が気にしていることがある。どこどこの鉄道会社でこんな気持ちのよい挨拶があったから、地元の鉄道会社でも同様のことをしなければならない的なことを書かれているのを目にするときである。または同じような挨拶をしないのは不誠実だとさえ受け取られる書き込みさえもある。確かに余所の鉄道会社で行われていた気持ちのよい挨拶などは地元の鉄道会社でもやって欲しいと思うのは個人の感情としてはよく分かることである。しかしそれを強要することに関しては反対する立場にある。何故か?前述のようにこのような挨拶類は心からの行動でなければ意味が無いのである。会社が挨拶をする約束をしても各個人個人の乗務員が会社から業務命令として形式的に挨拶をするのであれば、私は心の無い挨拶など一つも欲しくはないからである。乗務員自身が考え余所の鉄道会社で見習うべきものがあればそれを取り入れることはあってもよいと思うが、これをしろ!と乗客側が要望するのは全く反対である。
電車の本質について考えると乗務員の挨拶は人間同士(乗務員と乗客)がうまく付き合うための潤滑材でしかないことも分かるはずである。電車の目的は「安全に決まった時間に目的地に乗客を運ぶこと」である。将来技術が発達し100パーセントの無人化が達成された日のことを考えて欲しい。無人化は人間の判断の誤りをなくし、労働が発生しなくなるため運賃コストが下がるほか、従来長時間労働として運用が出来なかったような運用(24時間連続運転など)も可能となり乗客にとっては大変嬉しいことのはずである。このような無人化の事例は電話交換などがある。昔は電話交換手と言う職業の人たちが行っていた仕事はほんの僅かな部分にだけ残り、ほぼ100パーセント無人で機械が電話交換業務を行っている。このような無人の電車の運行が可能となったときには、乗務員との乗客との接触はなくなるのである。全てが機械が対応することとなる。このとき電車に乗り込んだ乗客が電光表示板に映し出される挨拶の文章やスピーカーから流れる挨拶のアナウンスなどで一喜一憂することもないことであろう。毎日乗りなれた乗客にとってはこれらの形式的な挨拶は邪魔になるものでしかないはずなのである。これで分かるとおり形式だけの挨拶は無意味であることがよく分かるはずであるし、また乗客が求めるものでもないのである。乗客が求めるべきものは電車本来の目的の「安全に決まった時間に目的地に乗客を運んでもらう」ことだけの筈である。たとえば挨拶のためだけに乗務員を乗せ運賃が上昇するとすれば大変おかしな話である。私たち乗客は挨拶と言うパフォーマンスを見るためにお金を払うつもりは毛頭無いはずである。
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著作:石崎達也 制作:有限会社タツヤ模型