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有限会社タツヤ模型&石崎達也の紹介

有限会社タツヤ模型の紹介

所在地:731-5146 広島県広島市佐伯区屋代2−9−27

電話:082-922-8620

電子メール:tatsuya_model@mbb.nifty.com

代表者 石崎達也(いしざき たつや)

 

 平成5年に資本金300万円で創業しました。当初は店舗販売を行う模型店でした。その後、店舗を廃止し、模型の設計・製造を行うメーカーに転換しました。

 自主的な模型の設計・製造・販売は平成13年1月末を持って終了し、平成13年2月からは現在の下記業務を行う会社として事業を継続しております。

 

業務内容

インターネット・コンテンツ配信事業

鉄道(主に路面電車)に関する書籍・CD−ROMなどの出版・販売

 

社長(石崎達也)紹介

 1961年(昭和36年)広島市で生まれました。 舟入地域で育ち江波中学校へ通うときなど広電電車を眺め利用しながら成長してきました。生まれた時から身近な存在であった路面電車は当たり前のものとして受け止めていましたが、実は結構特殊な存在になっていることは読者さんの知る通りです。 そこでこの路面電車を考えることによって都市交通の問題を検討して「歩行者優先の街作りが公共交通を強くする」という持論を掲げています。広電平和大通り線よりは従来からの天満町を走る路線が速く快適にそして人を集めることが出来るとも主張しています。いわゆる鉄道マニアや既存マスコミにない視線から交通問題を提示しています。 私はこのサイトで多くの広電電車への苦言を呈していますが、読めば分かる通り広電電車を含めた公共交通機関の応援サイトです。


撮影:長谷川潤(写真家)

石崎達也の履歴

1961年(昭和36年) 広島県広島市で生まれる。

 大変甘えん坊の赤ちゃんだったそうです。夏には暑さから火がついたように泣いていたそうです。就学前はたちばな幼稚園に通園していました。当時のたちばな幼稚園は平和公園の真正面(現在の土谷総合病院のところ)にありました。何故か平和公園で遊んだ記憶はありません。おそらく安全のために園内で遊んでいたものと思います。ただ行き帰りの通園バスが幼稚園の正面の緑地帯(現在の平和の門のある場所)に乗りつけていて、これに乗っていたのを覚えています。とても大きなおばさんがボンネットバスを運転していました。

1968年(昭和43年)4月 広島市立舟入小学校入学

 プラモデルが大好きな少年でしたが、小学校4年生の時に「こどもの科学」という少年向けの月刊誌に出会って、決まった形を作り出すプラモデルから離れてバルサ材を切ったり削ったりして模型飛行機などを盛んに作っていました。

1974年(昭和49年)3月 広島市立舟入小学校卒業

1974年(昭和49年)4月 広島市立江波中学校入学

 お小遣いが増えるにつれて鉄道模型に興味を示すようになりました。当時は鉄道模型は高価なものでした。親泣かせの子供だったようです。
 中学生のころは何故か勉強がよく出来たせいか生意気な天狗になっていたようです。周囲からは嫌われる中学生だったようです。

1977年(昭和52年)3月 広島市立江波中学校卒業

1977年(昭和52年)4月 広島県広島舟入高等学校(現:広島市立舟入高等学校)入学

 鉄道模型などの工作から興味が冷めて当時のオーディオマニアへと変化して行きました。主に聴いていたのはバッハなどのバロック音楽でした。朝6時15分からNHKのFM放送で流されていた「バロック音楽のたのしみ」(服部幸三さんや皆川達夫さんの案内でした)という番組を毎日のように聴いていました。それもカセットテープにエアーチェック(もう死語ですね)もしていました。

 クラブ活動は放送部に入っていました。これもオーディオ好きだったからだと思います。しかし毎日の発声練習が楽しみでした。校庭の端に立って校舎に向かって腹式呼吸で大きな声を出すのですが、これが結構ストレス発散に繋がっていたものと思います。

 右の写真は高校生のころの写真です。愛犬のシェパード「メリー」と一緒に記念写真を撮ったものです。

1980年(昭和55年)3月 広島県広島舟入高等学校卒業

1980年(昭和55年)4月 広島工業大学工学部電子工学科入学

 当時は何となく電気に関連した技術者になりたいと思っていたため、各大学の工学部を受験して合格したのが広島工業大学だけでした。大学はどこでもよいと考えていましたが、人生の中でなかなか思慮深い時間を過ごすことが出来た4年間だったと思い返すことが出来ます。

 単純に数学や物理や化学などの知識や技術を習得するだけではなく、科学技術の哲学的な意味なども教えてもらったのも大学だったように思います。中学・高校の受験競争が終わった後に楽園があったように思っています。

1984年(昭和59年)3月 広島工業大学工学部電子工学科卒業

1984年(昭和59年)4月 株式会社東芝入社

 入社当時の日本の経済状況はバブルを前にした不景気な時代でした。人材抑制をまだまだ行っている企業も多く就職も厳しい見通しでした。就職試験で中小の電気メーカーなどを受けましたが、ことごとく断られていました。だめで元々と思って当時の東京芝浦電気株式会社(東芝の旧社名)に応募して採用通知が届いた時には天にも昇る気持ちでした。1984年4月1日に(旧)東京芝浦電気株式会社から株式会社東芝に社名変更をしていて、私は新生東芝一期生とも呼ばれた記憶があります。

1984年(昭和59年) 東芝深谷工場テレビ海外設計部へ配属
  北米向けのNTSCカラーテレビのビデオ回路を担当
  当時の家庭向けデジタルTVのデジタル信号処理を担当

 東芝のような大企業では多くの入社経路が存在していますが、私は一般応募の入社であったため、仕事の配置部門に個人の希望をある程度聞いてもらえました。オーディオなどが好きだったのでテレビ・ビデオの事業部を選択しました。運良く事業部の採用枠もあったようで、テレビ海外設計部で技術者となることが出来ました。

 希望していたテレビ受像機の中でも花形とされていたビデオ回路部門を任されたことが、自分にとってはとても光栄なことでした。その後次世代に向けて研究段階でもあったデジタルテレビの開発にも係わらせてもらいました。西独ITT社の第二世代のデジタルテレビ用のICを使用したデジタルテレビの開発をしていました。当時はCMOSなどの信頼性がなかったため、ECLロジックで、たったの1ライン分960バイトのメモリを持つしかなかったものでした。それでも革新的なものだったのです。単純に画像処理でデジタル化を図って単純に画像改良に留まらず、この1ライン分のデータを2度走査させることによって、ノンインターレース化を図ってインターレースによる大型画面の上下揺れを防ぐなどデジタルは何でもできると感じさせるものでした。

 3年間ほどテレビ海外設計部で働きました。自分の希望している仕事でもあり、毎日楽しく働くことが出来ました。

 右の写真は東芝深谷工場の夏祭りで用意したお神輿を前にした記念写真です。会社内にカメラの持ちこみなどはかなり厳しく制限されていたので、制服(作業服)姿の写真が殆どないと言うか、これしかないのが残念です。

1987年(昭和62年) 東芝小向工場無線機設計部へ転属
  無線機(航空管制・気象レーダーなどの電波を利用した装置)のデジタル信号処理を担当

 当時はまだテレビなどの家電事業部門は赤字続きだったようで、大規模な人員配置転換が行われることとなりました。私にとってはとても不本意な配置転換で反発心がありましたが、新しい事業部門もとても興味深い仕事があり、いわゆる壺にはまったものとなりました。結果的にみてこの配置転換は私にとってとても有意義な仕事へと繋がりました。

 レーダーなどの製品は国や地方自治体などが購入することが多く、納期が3月末のものが殆どでした。一般企業では電力会社が多数の気象関連のレーダーを購入していました。現地での据付工事の前に工場の中で調整や試験を行うのが1月から2月に掛けてのことでした。かなり背の高いビルの屋上にレーダーを取り付ける台座が用意されていて、ここに製品のレーダーを取り付けて調整や試験を行います。強い電波を発信することもあり、他のレーダーの干渉を最小限にするためにも夜間に行っていました。一年中で一番寒い時期に、それも地上50メートルほどの高さの上で、夜のからっ風に吹かれながら仕事をするのは本当に辛かったです。寒さのために指がかじかんでしまって殆ど動かず、パソコンのキーボードを叩くにもごつい手袋越しに人差し指で一つずつ叩いていました。しかし朝を迎えると、凍えた空気の向こうから真っ赤な太陽が上昇してくるととても綺麗で、あまりの荘厳さに不思議と涙があふれ出てきたものでした。

 右の写真は当時の電子情報通信学会で学会発表(実際には四つの学会の連合大会でした)を行ったときに、会場入口で撮影したものです。「低雑音半導体インダクタンスの研究」の発表だったと思います。学会発表などは慣れていなかったので緊張のあまり、相当早口で説明を行っていたようです。OHPが映し出す資料で発表内容を掴み取ってもらったようでした(苦笑)。今となっては見る事が出来ないスーツ姿です。

1992年(平成4年)12月末 株式会社東芝を一身上の都合により退職

 自分にぴったりの仕事であったことから一生働き続けたいと思っていましたが、人生の生き方に疑問を感じるものもあり、自分をもう一度見直してみたいと考えるようになり、退職することを決意しました。

 東芝時代には会社幹部や社長という人たちは雲の上の人たちでした。直接顔を見ることが出来たのはたった1回、それも入社式のときだけでした。1200名ほどの入社式で演壇から距離が遠く、はっきり見ることも出来なかったように記憶しています。お昼休みの社員食堂で流されていた会社のビデオニュースで見るか一般のマスコミ報道でしか見ることが出来なかったものです。当然どのような人物であるのか知る術がありませんでした。しかし2006年の東京証券所のシステムダウンで詰め掛けていた取材陣にいろいろ答弁をする西室泰三社長(東芝の要職を歴任した人物)を見ると、窮地に立たされた人物は本心を見せるようで、一発で大好きになりました。大きな会社を引っ張る人物はやっぱり大きな人物であったように思いました。

1993年(平成5年)5月 有限会社タツヤ模型を設立 代表取締役に就任

 もう仕事をするのに就職するつもりはさらさらありませんでした。自分で事業を興すことしか頭にありませんでした。サラリーマン時代に再び始めていた鉄道模型で事業を開始することとしました。
 この自分で事業を興すことは自分にとってとても有意義のあることでした。サラリーマン時代には長期間の拘束もあり、仕事が大変であることに不満を持つこともありました。一種の被害者意識もあったものです。しかし自分で事業を興してからは全て自分の責任であることを痛感して事業を行うことができるようになりました。自己責任の境地の一つが会社社長というものの気がします。

 事業主としては右も左も分からない状況のままスタートを切ったことが、今にしてみれば、とても幼かったと思う今日このごろです。とりあえず模型店としてプラモデルなどを含めた小売り店舗して開始しましたが、鳴かず飛ばずの状況でした。

 もともと鉄道模型の製品化を目指していたので、すぐに組み立て模型キットの製品化に取り掛かり、これで全国的に知られる模型店となって少し状況がよくなりました。

 模型などの趣味のものはニッチな領域のものが売り上げを伸ばすことが多く、私もニッチ戦略で進んでいました。路面電車のキットや貨物コンテナのキットなど従来にないものを製造販売をして成功したものもありました。しかし成功しない製品も数多くありました。不良在庫となった製品を抱えると、なかなか利益を回復させることが難しいことを痛いほど知ることとなりました。

 事業の見直しを迫られることとなり、インターネットのコンテンツ配信事業に切り換えることとしました。ソフトの箱を奪い合う映像がニュースとなったWindows95が販売されて以降、インターネットが急激にの普及していたこともあり、多くの企業がインターネット事業に取り組んでいました。私もインターネットに賭けてみることとしました。もちろん当初から順調に事業が転換されたわけではありませんでした。多くの失敗に学びながら現在も生き残りを賭けて事業に取り組んでいます。

参考 石崎達也の写真の出発点

最終更新日:2007年08月25日

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