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石崎達也の写真の出発点 |
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私が写真を頻繁に撮影し始めたのは、社会人となって自由に使えるお金が増えてからでした。裕福ではない家庭に育ちましたので、写真のフィルム代や現像代のことを考えるとなかなか写真を気楽に撮影出来るものではありませんでした。こうした事からか、社会人になってからはボーナス時などに、順次カメラやレンズを買い揃えるようになりました。 当時住んでいた埼玉県北部から高崎線に乗って、途中乗り換えをしながら新宿まで出かけていました。大手カメラ量販店を巡っては、カメラを物色していたものでした。買うものは既に決まっていたのですが、少しでも安い買い物がしたくて各店舗の価格を調査して購入していたものでした。当時はカメラと言えば高いものでしたので、当然の心理だったと思っています。 社会人になって最初の被写体となったのは、勤めていた工場にあった女子バレーボール部の選手たちでした。バレーボール部の試合には応援を兼ねて写真を撮っていました。気合い十分でコートの中を動き回る選手たちの息遣いが聞こえるような写真が撮影したいと思っていました。
当時の撮影はISO1600のネガフィルムで撮影していました。もちろん動きの速い選手を撮影するにはISO1600でも足りないぐらいでした。また照明の関係で色が変化することもあり、後で補正もできることもネガフィルムを使っていた理由です。ポジフィルムの高感度のものはネガフィルムより粒子が目だつように感じられ、それも色温度を補正するフィルターを装着して実効感度が下がってしまうのがいやだったもの原因です。 バレーボールの撮影ではよくカメラを落として壊していたのを思い出します。試合前のウォーミングアップの様子や短い練習時間の時にだけ、ある程度近づいて撮影することが出来ました。このときカメラのファインダーの視覚の外から急にボールが飛んでくることも多く、カメラを構えている頭部を直撃することがありました。さすがに素人が打った球ではないので、カメラもろとも吹っ飛び、そのままカメラが落下してしまうことが何度かあったのです。そして瞼の上にはカメラのファインダーの形のあざが残って後日笑われたりしたものです。このときから同じカメラを何台か所有して修理に備えるようにしたものでした。これらのカメラの傷は勲章のように見えてしまうものです。 女子バレーボール部の撮影の他に、当時はまだたくさんあった都心部での歩行者天国で行われていたパフォーマンスの撮影を行っていました。特に原宿駅からNHKの放送センターに向けての歩行者天国にはよく出かけていたものです。 私が出かけていた当時(1980年代後半)には既に竹の子族の姿はありませんでした。たまにそれらしい服装をした人たちの姿を見かける程度でした。1980年代はパフォーマンス真っ盛りの時期だったようで、歩行者天国の道路のそこかしこで何かのパフォーマンスや音楽が演奏されていました。お遊戯会レベルのものから、かなり大規模で本格的なグループなども存在していて、決して素人とは思えないものまでがありました。こんな刺激的な空間では、写真の対象になるものばかりで目移りするばかりでした。
私が主に撮影していたのは、女性グループのダンスユニットでした。このダンスユニットが何グループも存在していて、一斉にダンスを始めるので、こっちのグループを撮影するとあっちのグループが撮影出来ないというジレンマに嬉しい悲鳴をあげていたものでした。目だってなんぼ、観客を集めてなんぼの世界という感じで、いろいろなものが入り乱れて競い合う姿は壮観なものがありました。
歩行者天国から芸能界にデビューした人たちも多く、夢を見させてくれる場所の一つだったように思います。私のように写真を撮影する人も一種のパフォーマンスのように受け止められている部分がありました。そのため女性でも写真を気楽に撮影させてもらえる雰囲気がありました。現在にも繋がる路上での女性ポートレートの始まりはここなのです。
その後、写真は鉄道模型の資料として鉄道車両や施設を撮影することが多くなりました。その後、仕事を変更して、現在の路面電車などの公共交通機関の多くの側面を紹介する写真を撮影するようになりました。
私は基本的に人間を撮影し続けてきました。しかし人間を撮影することはいろんな意味で大変なものです。しかし人間を撮影することの難しさを知れば知るほど、楽しさを感じることも強くなってきました。それは被写体となった人物を理解することが出来たと思えるような感動を撮影出来たときです。
最後にお見せするのは、一般の人や観光客が数多く訪れる公園での警備の仕事をなさっていた男性です。若い時から勤めていた会社を定年退職した後、再就職先として警備会社で10年以上も働き続け、70歳を越えてさすがに衰えを自分自身で感じるようになったそうです。「自分の仕事でみんなに迷惑を掛けてはいけない」ということで退職することを決意なさったそうです。仕事が完璧に出来なくなったら、その仕事を辞めるという男の美学を感じさせてくれるものでした。自分の仕事に責任と誇りを持っていなければ語れない言葉です。
最終更新日:2006年08月21日 |
掲載:2006年8月21日